歴史好きな子供と巡る日本100名城の旅 Vol.7【東海】山中城は築城技術が散りばめられた山城!

小田原城の西の拠点「山中城」は小田原北条家の築城技術が結集した立派な山城。なかでも障子堀と畝堀は必見。物見台から見下ろす裾野の街と富士山も素晴らしいいの一言です。

北条家の築城技術はすごい

東京方面から箱根新道経由で走り、箱根峠を南下すると、この日の目的地、山中城に到着しました。
天気は晴天。眺望が得られる山城の登城にはもってこいの気候です。

本日は息子と二人の男旅。
先日の鉢形城と八王子城で、山城の楽しさを知ってしまった息子は、出だしからテンション高めです。

見てください、この躍動感!
写真なので伝わりませんが、

「うおらああああああああ!」

という雄叫びを上げながら階段を駆け上がっています。
駐車場と管理棟がある国道1号を境に、二方向に遺構が伸びている構造の山中城。まずは本丸方面へと進みます。

田尻の池

進路通りに進むと、田尻の池にぶつかりました。
池は濁っていますが、鯉が泳いでいるのがわかります。
山城というのは水の確保が何よりも大事で、この山中城のいたるところで、水を確保する工夫が凝らされていました。主にこの池は、馬の飲料水として使われていたそうですね。

道が別れていたので、直進して二の丸、本丸と進むルートを選択しました。

季節も4月上旬で、まだ緑に色付いてない芝ですが、きちんと整備されていることが見て取れます。
当時も石垣は積まれず、土塁で区画されていたようですね。
鉢形城のときも感じましたが、往時の姿をそのままに感じられる遺構には、胸が踊ります。

二の丸から本丸へ

二の丸から本丸へと続く橋。
ここにも山中城特有の畝堀(うねぼり)が掘られています。

今は芝が生えていますが、当時は粘性の高いローム層がむき出しになった土で、甲冑姿で一度落ちたら、這い上がるのはほぼ不可能だったと言われています。また堀には水が溜められ、水の確保に活用されていたそうです。

堀を畝状にすることで、一度落ちた敵の横への退避も防ぐという、整った見た目とは裏腹に、極悪な仕掛けなのです。

本丸跡。特筆すべきものはありません。
この山中城は小田原北条家の築城技術が発揮された山城でしたが、小田原征伐の際は八王子城同様、圧倒的な戦力の前に、わずか半日で落城してしまいます。
あとでレポートしますが、豊臣軍対策として作られた出丸(岱崎出丸)も含めて、とても堅固な城だったはずです。兵力数が肉薄していたら、攻め落とすのは至難だったことでしょう。

「うおおおらあああああああああ!」

これを10回以上は繰り返していました。息子の体力、まだまだ衰え知らずです。

本丸の北側の橋を渡ると、北の丸。

本丸を南に下ると、弾薬庫と兵糧庫。

本丸から西の方を向いた景色。
さてそれでは、視界の先の西の丸の方に行ってみましょう。今日は天気がいいから富士山が見られるかな?!

必見!障子堀(しょうじぼり)

西の丸に向かう途中、おじさんたちが階段を整備していました。
こういう方たちのおかげで、僕らが当時の遺構を安全に探索できるのですね。感謝しましょう。

西の丸

西の丸に到着。
手前に向かって傾斜になっているのがわかりますか?
写真の右手前には溜池がありまして、この傾斜を流れた雨水を貯蓄できる仕掛けになっています。

西の丸の先端の物見台に立って見ましょう!

うーん、晴れてはいるが雲多し!
正面の愛鷹山(あしたかやま)はあらわになっていますが、右手の富士山はまだほとんど雲に覆われています。
残念がる息子。

気を取り直して下に目をやると、この西の丸の周囲には、この山中城の代名詞といっても過言ではない、障子堀(しょうじぼり)が広がっています。

障子堀

丁寧に「撮影スポット」の立て札が立っていました。
オススメどおり、その場所から撮影。
山中城の100名城スタンプも、このアングルのものが採用されていますよね。

障子堀は抜け出すのが困難な上、移動を許さず這い上がる場所も限定されるので、鉄砲や弓を集中させることができ、守る側からはとても効果の高い防御策となります。
多くの山城で採用された堀ではありますが「障子堀といえば山中城」と言われるぐらい、このお城の障子堀は見応えがある状態で復元保存されています。

遺構の風化を避けるために、芝を張って保存されているおかげで、いまなお我々が、戦国時代に思いを馳せることができるのです。息子にも過去の遺産を大事にする気持ちが伝わればいいなあと思い、一通り説明してみましたが、ピンと来てるかどうかはわかりません。

畝堀も見事!

これにて西の丸は一通り見終えたので、まだ行ってない三の丸(宗閑寺)方面に足を伸ばしましょう。

三の丸(宗閑寺)

三の丸の跡地には、宗閑寺(そうかんじ)があります。
ここには、城主として戦死した松田康長や副将の間宮康俊などの北条家の武将とともに、豊臣側の 一柳直末 も一緒に、敵味方へだてなく祀られています。

余談ですが、この豊臣側の一柳直末は、秀吉の信任が特に厚かった武将で、彼を失った秀吉は

「関東を得る喜びも失われた」

と、三日も口をきかなかったそうです。

我々としては、一緒に祀られていることを美談と感じるのですが、刃を向け合った当の本人たちはどう思っているんですかね(笑)一柳直末なんて間宮軍にやられているわけですし、半端なく恨んでいるんじゃないでしょうか。。。

これで国道1号の北側の遺構は全て回り終えました。
管理棟でトイレに入ってしばし休憩。そこに備え付けてあった100名城のスタンプを忘れないうちに押しました。

押しましたが、上手く押せずににじんでしまって、テンションが下がり気味。
横すべりしちゃったんだよな〜。

広い敷地を歩いたので、私も息子も少し疲れていたものの、力を振り絞って、国道1号の南側の岱崎出丸に足を進めました!

岱崎出丸で絶景を見る!

豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急遽作られた出丸が、この岱崎出丸(だいさきでまる)です。
ここにも立派な畝堀が築かれています。
攻める側は、この堀をどうにか越えて登りきったとしても、

このすり鉢曲輪に追いやられます。

文字通りすり鉢(すりばち)の形状をした曲輪で、畝堀で体力を消耗した敵兵は、四方の傾斜で下半身をやられ、まともに応戦できないと言われています。なかなか極悪な作りです。

ようやく富士山が姿を見せた!

山中城をくまなく回り終えた僕と息子が、帰路につくべく駐車場へと進み始めたそのとき、

富士山が(少しだけ)顔出した!

眼下に広がる裾野の街と、壮大な山々。
この山中城が落城したのは3月29日と言われており、今と全く同じ季節。
攻めた豊臣秀次や、守った北条武士たちの目にも、富士山は今と変わらない存在感で映ったのでしょうか。

他のご家族にまざって立ち尽くす息子(笑)
息子よ、今何を思っているのだ!

噂に違わぬ名城・山中城の探訪を終えた我々は、箱根新道を小田原方面へ進み、この日2つめのお城「小田原城」に向かいました。小田原城のレポートはまた後日!

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